「愚かな思惑」




全部無くなってしまえばいい。
そう呟いたわたしは、キリコの目の前でわざと事を起こした。

キッチンから果物ナイフを取り出して、自分の腕に思いきり突き刺した。するとまるで自分のものではないように、眩しく赤い血が、だらだらと床に零れて、深く刺さった刃物を抜くと、堰を切ったように一面が真っ赤になった。

死 ぬ で す っ て ?

傷口を吸うように唇を押し当てると、キリコと目が合って、元々白い顔が更に青白くなったのを見た。
無意識にわたしの口角は上がっていって、結局、頬を思いきり殴られて、わたしは引き摺られる様に処置室へ連行された。


そんなつもりはさらさら無いよ。ただ、そうすることが今必要だとわたしの中の何かが訴えていたからだ。本当にそれだけだ。第一、果物ナイフじゃ死ねないでしょう。











彼は何も喋らなかった。

たとえば、なんでこんなバカな事をしたんだ、とか、お前の脳味噌はゼリーかとか、ひとしきり何か罵倒されるつもりでいたわたしは、少し強めに巻かれた包帯を見つめながら、消毒の匂いを味わった。


嫌な沈黙だ。でも、腕を刺した事はそんなに後悔していなかった。
確かにそりゃあぐっさりとやった時は少しばかり痛かったし、何かがブチブチと切れるような鈍い音が体内で響いていたけれど、それよりも、なにより、とても心が軽くなってゆく気がして、だからわたしは更に深くナイフを抉りこませたんだ。


「ねえ、怒ってる?」
沈黙は苦手だった。特にこんな重苦しく湿っぽい空気は大嫌いだ。それを作り出したのはわたしだと言われればお終いだけれど、あまりに彼が無視を決め込むので、わたしは痺れを切らして口を開いた。また殴られるのは覚悟の上だった。
「…………、……怒ってない」
物凄い間を開けて呟かれて、誰がそれを信じると言うのか。彼が怒り心頭なのはどこの誰が見てもわかることだった。
じゃあもう少し包帯緩めてほしいなあ、凄く、痛いんだよ、これ。と、診察台の上で足をぶらぶらとだらしなく浮かせながら、私はひどく軽率な声色を彼に向ける。キツく巻かれた包帯の所為か、それか失血の所為か薄紫色に変色した腕を鈍い動作で持ち上げた。



しばらく黙ったまま、時計の秒針の音だけが2人の関係を保っていた。

「…なぜ、こんなことを、した」
ふいに、口を覆い隠すように手を添えて、キリコはわたしの眼を見つめた。でもその目はすぐに伏せられてしまう。そうして一言ずつ探るように途切れながら、やっとの思いで、というように言葉を紡ぐ。押し潰された声は掠れて睫毛が揺れた。

「…刺したら、どうなるのかなあって思って」
それはわたしが待ち望んだ科白だったけれど、そんな彼に対して、わたしの答えはとても軽々しかった。ただ、わざと怒らせようとしているわけじゃなかったけど、どうしても、こんな科白しか出なかった。 というか、真実なんか伝えられるはずがない。それは冷静になった今考えると、あまりに愚かな思惑だ。

途端に、キリコから一切の力が抜け落ちたのがわかった。眉間に寄っていたいつもの皺も、増えるどころかひとつ残らず消えて、すっかり彼は俯いた。溜息のひとつも吐かないで、一度だけゆっくり目を開けてわたしを見据えて、また、伏せた。それからまた処置室は冷たい空気で覆われる。彼の行動はわたしの予想と全く違っていた。

(殴りとばして大声を張り上げるのかと思っていたんだ。なのに、そんなに泣きそうな顔をされると調子が狂ってしまう。思いきり殴って、蹴り上げて、馬鹿だ、お前なんか本当に死ねばよかったんだってそんな風に言うはずじゃないか、いつものお前は。本気で怒ってわたしを突き放すのがいつものお前なのに、わたしはそう思っていたのに、それがわたしが知っているキリコという男だっていうのに、どうして、今になってそんな苦しそうな顔をするんだよ。処置のときもそうだ。終わった途端にほっとしたような顔をしただろう。お前は誤魔化すかもしれないけれど、わたしには見えたんだ。お前の目が少し細まるのを、わたしは見てしまったんだよ。なんでそんな顔すんだよ。卑怯だ、まるで、それじゃあ、まるで)



小さく震える肩を見据えて、わたしは血が滲むほど唇を噛んだ。

刺したのは 君に 突き放してもらう為だったのに