多分、私はとてもひどい顔をしていたんじゃないかと思った。
say, tell me how to do
goodbye.
ひどく湿った地帯のわりに、
の喉は痛みが走るほど渇ききっていた。冷たくて少し軋む床の上にへたりこんで目の前に横たわる手に触れた。服が汚れるとか、そういう事は本当にどうでもよかった。
「きれいだ」
ぽつりと吐いたその科白とは対照的に、だらりと全くカケラほどの力も入っていない生白い手だった。まるで、本当に彼が死んでしまったんじゃないかという錯覚を起す。
しばらくその手を見詰めたあと、
はべろりと、骨張った指を舐めた。熱をおびた舌と、歯で数回噛み、舐める。ひたすらにそれを繰り返して、目だけをキリコに向ける。きっと普段同じような行為をしたら、彼は物凄く怒って平常心を乱すはずだった。しかし、この手はぴくりとも反応を示さない。
「筋張ってるし、皮も少し固いけど、きれい」
指一本一本から、爪と、手の甲、掌。少し強めに手首を噛むと、
の犬歯の痕がついて、そこは赤く小さな点になった。少しはれ上がった。
ああ、彼は生きているんだ。反応はなくても、彼は確かに今生きているんだ。
はたまらなくなってその手に頬擦りをする。するとひんやりと濡れた感触の奥から、微かに脈音が耳をかすめて、思わず吐息が零れた。泣きそうだった。唇を離すともうキリコの手は、すっかり
の唾液にまみれて、薄暗い室内できらきらと光っていた。
(数週間前からわたしの周囲がとても静かで彼の気配がどこにもなくて、まあ、それはそれできちんと女子高生っていう生活もエンジョイしていた矢先だったのよ。まるでその瞬間に世界が崩壊したのかっていうぐらいの絶望によく酷似した感覚ばっかり、耳鳴りみたいにわたしに嘲笑いかけて、授業中だっていうのも何もかも吹き飛んで気がついたらここに座っていた。制服のままで、わたしの手の中に死人みたいなモノが埋まって、ああ、なんだか、時計の秒針の音がやけに耳につく)
心情はひどく荒れていたが、頭に血が昇ったのは、彼が死ぬかもしれないとユリから一報をもらったときがピークで、それからは本当にみるみると体感温度は下がっていった。
「どうして」
きゅっと結んだ唇が震えと共に緩んで、堰を切ったように
の上ずった声が響いた。
「……どうして、わたしには何も教えてくれなかったの」
にそれは不毛な科白だったが、
はどうしても何か言いたくて、たまらなくて、そうじゃないと思いきりキリコの手に縋って泣いてしまうんじゃないかと思った。そんなことは決してしたくなかった。ただ漠然とそう思っていた。
「…一体あんたは何を思っていた?」
いまだ目覚めないキリコのまぶたへ眼帯越しに指を乗せる。そっと掴んでいた彼の手をシーツの上に下ろして、その上に自分の頬をくっつけた。視界がシーツとぼやけた彼の肌色に奪われる。
はその指を顔ひとつひとつの部分をなぞるように、ゆっくりと動かし、それから、意気地なし、とキリコの痩せた頬にギリッと長い爪を立てて引っ掻いた。それでも麻酔が効いている所為で、キリコは微動だにしない。
引っ掻いた個所は赤く滲んで筋に変わってゆく。それだけが、彼が死人ではないと何度も確認させ、namを繋ぎとめる。
「黙っているなんて卑怯だ」
そう言って
は唇を噛んだ。あまりに強く噛みすぎて血が出た。吸い上げると口の中に錆びたような気持ちの悪い味が広がった。
わたしは、怒っているわけじゃなかった。ただ、きっとキリコはキリコなりに考えて、辻褄を合わせて死ぬつもりだったのかもしれないだとか、そんなことはもう気にしてはいられなかったんだ、もう。わたしは本当に何もしらなかった。彼が苦しんでいるのも死にかけていることも(ましてや自分を安楽死させようとしていることさえ)何もかも知らずに、同時刻に笑っていたりしたんだ。この仕打ちはあまりにもひどすぎるんじゃないか。
「なんとか言えよ……、ばかぁ…」
とても情けない声が腹の底から沸いた。
こんな声を出す女だっただろうか、わたしは。こんなわたしを、わたしは知らない。
(別に知らされていたからって、何が出来たわけじゃないんだろうけれど)(それでも、告げられなかったのはひどくかなしいんだ)(ヘタをすれば知らない間にこの男は絶対に絶対に手の届かない範囲に行こうとしていたのが、わたしはどうしても赦せないんだ)(青臭い思いだけれど、きっと大人ならもっと理解力があるのかもしれないけど)(絶対に赦せない)(彼の意図なんか子供のわたしには全然わからない)(わたしは何もしてあげることができなかった)(彼はそんな事気にするなって言うのかもしれないし、もしかしたら辛い顔をしてしまうかもしれないけれどそう思わずにはいられないんだよ)(わたしを受け入れて欲しかった)(わたしに向き合って欲しかったんだ)(そんな下手な優しさはいらなかったんだよ)(欲しくないんだ)(欲しくないんだ)(おねがいだから)(おねがいだから)
まだ、動かない手を痛いほど握る。
は強く眼を瞑った。