「グリザベラはどこにいったの?」
 
 舞踏会の日からずっと気になっていたことを、今日、おやすみなさいをする前に、少女は思いきって問い掛けてみました。するとふたりが一瞬顔を見合わせて、「どうしてそんなことを訊くの?」っていう表情をしたので、もしかしたらおこられるのかもしれないとこわくなった少女は、少しだけ心臓がいたくなって、シーツをひっぱり顔を半分隠しました。
 
「…グリザベラは天上へ行ったのよ」

 すると、 その隣で少女の髪をふわふわと撫でていた女性が、とてもやさしい声で言いました。彼女の名前は といいました。彼女は少女の姉でも母親でもありませんでしたが、いつもこうして隣にいてくれる存在でした。彼女は自分ととても良く似た色と質感の毛並みをしていたので、少女は彼女といると、まるで自分に本当の姉か母ができたかのように安らかな気持ちになりました。もっとも彼女はとても女性的で母性的な女性でした。やさしいのは声だけでもなく、瞳の奥はゆるやかに揺れていて、いつも天使のような、教会で見たマリアのような、とてもうつくしい女性でした。 

「てんじょうってなあに?」

 少女が大きな目をぱちりと瞬いて彼女に問い掛けると、彼女が答えをくれる前に、今度は背中の方から穏やかな声が、「しあわせになれる場所だよ」と教えてくれました。マンカスお兄ちゃんでした。といっても、実に男性的な体つき、声色、そしてとても頼もしそうで知的な目をした彼もまた、 同様、少女の肉親ではありません。けれども少女は、彼を父のように、そして兄のように慕って、 に対する愛と同じぐらいの愛を注いでいました。つまり2人は少女にとって、兄姉のような、父母のような尊い存在でした。

「そこはどんなところ?たのしいところ?」
「ええ、きっと」
「とても素敵なところさ」
「どんな風に素敵なの?」
「そこにいくと幸せになれるんだよ」
「どうしてそこに行くと幸せになれるの?」

 少女が彼の方を向いてそう尋ねると、彼は少し困ったような顔をしました。訊いてはいけないことだったのかもしれなくて、慌ててごめんなさいをしたら、そんなことはないぞ、と慌てたように早口で言いましたが、相変わらず悩んでいるみたいにみえて、きっと自分わるいことを聞いたのだ、と少女は思い、とてもすまない気持ちになりました。
 少女がしょんぼりしていると、 が小さく「マンカス」と彼をたしなめるように名前を呼びました。それから彼女は少女の髪を撫でるのをやめ、わたしたちにも難しいことだけど、と呟いてから、新しい命を、天上で“神様”から貰うからよといいました。神様は少女も知っていました。といっても、実際に会ったことはありません。ですがそれは誰しも同じなのだと、いつの日かミストフェリーズという博学の黒猫に聞いたことがありました。とても偉大ですばらしく、すべてのものを見て、聴いて、知っている。いつも自分たちを見ていてくれる大きな存在なんだと、黒猫は言っていました。
 じゃあグリザベラは新しい命を貰ったの?グリザベラは、グリザベラじゃなくなったの?と訊くと、「それは私達には解らないわ」と はひっそり言いました。

「みんないつか天上にいくけど、それはとてもとても先の話なの」
「… も?」
「そうよ、私も、マンカスも、バブだったらずうっとずうーっと、先のお話ね」
「うん…」
「でも、ジェリクルムーン輝く月夜に、―――、ああ、そうだわ、ねえ、この前の舞踏会のお月様、バブは覚えてる?」
「うん、まんまるいお月様が出てたよ!」
「年に一度のその日に、ジェリクルキャッツに選ばれたら、」
「天上に行ける。そうして、誰より先に新しい命、つまりしあわせ、だな。これが手に入る」

  がゆっくりと言い聞かせるように語っているところを、うしろで黙っていたマンカスが続けました。彼女はおいしいところをとらないで、と笑いましたが、なにが美味しいのか少女にはよくわかりません。でもいまはそれを言うべきではないと思って、黙って2人を見比べて、少女はうん、と頷きました。それでも、少女には、さっきから2人が言っている「しあわせ」の意味がわかりませんでした。どうして神様に新しい命をもらうことが、「しあわせ」なんだろうと頭がこんがらがっていました。
 少女はうんうんと唸りながら考えました。
 考えて考えて考えました。
 そうしてデュトロノミーが言っていた、「本当の幸せとは、新しい形でまたこの世界に生まれ変わり、心の中の強い思い出を決して忘れずに生きることだ」という言葉を思い出したり、グリザベラの形容する単語がわからないほど苦しそうな、辛そうな、でも笑っているという不思議な表情を思い出したり。とにかく少女は考えました。脳がパンクしそうなほど考えました。それでもやっぱり、「しあわせ」の意味はわかりません。すると、そんな少女を見ていた二人は、くすりと微笑みあって口を開きました。

「これが一般的な話だけど…実際はすべてがそうだとは限らないんじゃないか、幸せの形なんて」
「え?」
「まあ、」

 少女は目をぱちくりとさせて彼の方に向き直りました。すると もまた、少し驚いたような声を上げると、疑問符ばかりの少女とは正反対に、クスクスと笑い出しました。

「違ったか?」
「…違うというわけじゃないけど…」
「じゃあなんだ?」
「…マンカスがそんなこと言うなんて、意外ねって」
「…どういう意味だ、それは」
「だって、マンカストラップがデュトロノミーの思想に否定的な態度をとるなんて、わたし見たことが無いんですもの。きっとはじめてじゃないかしら」
「…
「ふふ、ごめんなさい、怒らないで。でも、そうね、そうだわ、あなたの言う通りね」
「そうだろう」
「ええ」
「…お兄ちゃんと は、天上にはいきたくないの?」

 少女は驚いたように目を丸くして、きょろきょろとせわしなく2人を見比べながら言いました。同時に、益々何がなんだかわからなくなってしまいました。
 “ 幸せとは、天上に行くこと。そしてそこで生まれ変わること。 ”
 そう少女の中で、ぼんやりと、それでも考え抜いてやっと形になろうとしていた結論が、すっかり引っ繰り返されてしまいました。そしてふたりだけで意思の疎通ができていて、自分だけがわかっていないような疎外感を感じて、ちょっぴり悔しくなりました。
 幸せにはなりたくないの?と首を傾げると、ふたりは最初と同じように顔を見合わせて、またちょっと黙っていましたが、すぐに真ん中の少女を包むように身体を寄せて、少女の胸の上でしっかりと手を握り締めます。それからマンカスが、少女の戸惑い色の瞳をしっかりと見詰めて、「だって俺達にはまだ早いさ」と、今まででいちばん穏やかに言いました。

「どうして?だって、それが“さいこうのしあわせ”なんじゃないの?」

 納得がいかない、少女はそんな顔で頬をふくらませながら何度も聞きました。怒られるかもしれません。それでも聞かずにはいられなかったのでしょう。子供でありながらもジェリクルの素質を持った幼子ならではの気高さ。それが少女を駆り立てるのでしょう。少女はひどく知りたがりました。少女の頭の中を疑問符がうめつくしていて、このまま黙ってはいけないような気がしていました。聞かなければいけない、そんな気持ちでいっぱいでした。

「そんなに責めたらだめよ、バブ」
「でも、…」
「なあシラバブ。お前は、今楽しいか?」
「…?」
「毎日を生きていて、どうだ、たのしいか?」

 あまりに必死に問いただす少女を、 は優しく制しましたが、彼はいいんだ、と目配せをすると静かにそう囁きました。その問いかけに、少女は思ったとおり、たのしい、というと、彼は「そうか」と嬉しそうに微笑んみました。それから「それも幸せなんだぞ」と続けると、次に が、「幸せは“天上に行くこと”だけじゃないのよ」と。

「俺の幸せは天上には無いんだ」
「…どうして?」
「だって、天上には”ただ一匹”しか行けないだろう、だったらそこは俺にとって、幸せでもなんでもない。幸せの形っていうのはな、ひとつだけじゃないのさ」
「どれが本当の幸せか、それは神様が決めるんじゃないんだと思うわ。自分で決めることなのよ」
「自分で…、わたしが決めること…?」
「そうよ、シラバブがね、これがわたしの幸せだってそう強く思ったことが、あなたにとって本当の幸福。わたしはそう思うの。誰に何を言われても、自分の幸せがそこにあるって思えば、それが本当の幸福になるのよ」
「でも、しあわせは…本当のしあわせは、天上だって、デュト様が、」
「天上に行く事が幸せになる人だっている。でもそうじゃない人だっている。シラバブは、今みんなと別れて知らない土地に行きたいか?俺や や…仲間と別れてたった一人でだ。行きたいか?」
「ううん、やだ!」
「そうだろう、つまり、そういうことなんだよ。わかるか?」
「う、……うん…、」
「大切なのは自分の意思なのよ、タガーなんて俗世大好き!で俗世にいることが幸せみたいな子のくせに、舞踏会来てたじゃない。みんな、それぞれっていうことよ」
「はは、それいい例えだな」
「じゃあ、……お兄ちゃんたちのしあわせって、なあに?天上に行かなくてもいいぐらいのしあわせって、なあに?」

 少女はもうこんがらがりすぎて、泣きそうでした。ひとつひとつの言葉を理解するので精一杯でした。マンカスはそれを察したのか、少女をやさしく抱き締めると、ぽんぽんとあやすように、なだめるように、落ちつかせるように胸を叩きました。それから と一瞬だけ目を合わせて、少女の整理がつく頃合を見計らったように間をあけて、そうだなあ、

「…お前と、 と、俺。今は3匹一緒に傍にいること。勿論ヤードのみんなもだけど、こうして話をしたり、飯を食ったり、笑ったり泣いたりな、そういう生活。それが俺と、それから の幸せさ。これ以上無い、最高の幸福だよ」

 
なんたってシラバブと は俺の幸福で、天使で、何よりも大事な宝物だから、俺に天上の幸福はまだいらない、と彼は続けました。それは実に穏やかで穏やかで穏やかな声でした。そうして愛してるよ、と少女の頬にいつものようにキスをして、やんわりと毛並みを撫でるのです。
 みるみるうちに、少女は今までに感じたことのないようなものでいっぱいになっていくような気がしました。心臓の裏側あたりが絞られるみたいに熱くなって、シーツを頭からすっぽりかぶりなおしてその中でぎゅっと目を瞑りました。まぶたの奥が赤くなり、それ以上何も言えませんでした。せつないような、うれしいような、本当に不思議な気持ちでした。だから、その不思議なものに夢中で、その時 とマンカスが少女の頭の上で、ほんとうに幸せそうに微笑んでキスをしたのにも気がつきませんでした。ただふたりのつないだ手の力がより強く自分を抱き締めたことを微かに感じていました。
 夫婦ではないけれど、お互いを慈しみ、心から愛している間柄の男女と、その娘でも妹でもないけれど、2人の愛情を一身に注がれ、また幼いながらもありったけの愛情を返している少女。この三匹は互いに全くの他人でありながら、実に程よいバランスのとれた愛で繋がりあっているのです。



 シーツの中で、少女はあの日見たグリザベラという娼婦(少女にはこの単語の意味がわからなかったけれど、あまりいい意味ではないのだろうな、とは思っていた)のことを思い出していました。その日だけは夜更かしも許されて、少しぐらい大きな声を出しても怒られない夜、月明かりの下でわいわいと騒ぎ立てて楽しい夜だったのです。それが、彼女がふらりと姿を現すとみんなが押し黙ってしまう、あの異様な雰囲気。少女がわけもわからず彼女に近寄ろうものなら、他の大人が飛んできて叱られるあの重苦しいムード。
 それでも、少女は覚えていました。スラングを浴びせられて、引っ掛かれて、邪険にされて、誰からも話しかけられなくても、彼女はずっと舞踏会にいたこと。自分だったらそんなところにはいたくないから、はやく帰ってしまうのに、彼女は夜明けまでずっと、何度も現れたこと。天上に昇っていく時のグリザベラは、とってもきれいだったこと。まるで今日のお兄ちゃんと ぐらい、きれいだったこと。

 少女はふと、あの時グリザベラに触れた指先を握り締めました。グリザベラが本当に天上で、神様に会ったのか。それは誰も知りえないことですが、それでも、少女の中には確信にも似た思いが、こっそりと芽生えていました。窓の外には切ったばかりの爪みたいな三日月がわらっています。両側から伝わるふたつの体温と心音、それをいとおしく感じながら、少女はずっとずっとあのきれいな笑顔を思い出していました。







end.