もしも僕があの窓を見つけなかったら、
もしも僕があの腕をきれいだと思わなかったら、

もし僕が眼差しだけで誰かを殺したりできたら、
もし僕が溜め息だけで誰かを怖がらせたりできたら、
もし僕が僕でも、さらに僕ではない僕でもなかったら、

もしも、
もしかしたら…、







僕の人生はイフばかり転がっている。自分でもうんざりしてしまうぐらい、意気地が無くものぐさな僕のまわりを取り囲んでいる目障りなイフだ。払い除けようとしても出ていってはくれない。いや、そもそも僕はそのイフを払い除けることにすら、怯えて逃げ隠れているだけかもしれない。僕はいつだって臆病者だ。

あの高い屋根の左下。窓際の、小さく開いたガラスの隙間に、僕はいつもこの路地から目をこらしている。僕があまり好きではない真っ赤な橙色の夕暮れが過ぎるころ、水色のカーテンがゆたりと揺れる瞬間を、僕は見逃さない。

ここから見えるものは少ない。僕が見ているものは、カーテンの隙間から伸びる腕だ。僕はそもそもあまり目がよくはないから、細めてやっと、その、腕、が、見える。その腕はとても美しかった。僕はその腕に と名づけた。代名詞だけでは味気ないし、彼女の本当の名前も知らないから、僕だけしか知らない僕だけの呼び名をつけた。唯一の名前だ。

水面のようにゆらゆらざわめく髪が見えたらその日はラッキーだけど、基本は腕。遠目からでもわかる美だ。白鳥よりしなやかで、あんな生き物のように水面下でもがいたりはしない、どこでも、いつでも、すべてにおいて完璧なまでのフォルムがいとおしかった。その腕にシミひとつなくなめらかであることは、眼が悪くたってわかる。僕の身体中の全細胞がそう教えてくれた。

近付いたりはしないのか、と思うかもしれないけれど、僕の性格からしてそれは無理な話で、いつでも三つの選択肢には、「ここから見ている」しか表記されないし、これからもきっとされることはないだろう。僕は想像の中であの腕に触れたり、抱かれたりするだけでよかった。たびたび夢を見ては、実物を妄想してたのしんでいた。

僕はいつでも名前のないままここからあの腕を見ているだけで、それ以上でも、それ以下でもない。僕はただ、美しいものを鑑賞しているだけに過ぎないのだから、悪でも善でもない。けれど、それでも僕はこれだけで満足だ。



ところが数日前から、僕の はすっかり姿をあらわしてはくれなくなってしまった。寒い日が続く2月のなかばだった。あの水色のカーテンはいつでも閉め切ったままになっていた。僕は風邪でもひいたのだろうかと、少し悠長なことを思いながらも、毎日ここからカーテンが揺れる瞬間を待った。けれどもその日はいっこうに訪れなかった。

この時から、僕のまわりでは不思議なことが起きるようになった。まず、頭がよく痛むようになった。それから昨日のことが思い出せないという軽い健忘が起きた。それは特に夜のことが思い出せなかった。昼間僕はたいてい教会の庭にそびえる神木の上に転がっていることが多いので、そこまでは思い出せるのだが、そのあとからはどうしても記憶は沈み切ったまま出てきてはくれなかった。

の姿が見えなくなり、僕の身体がおかしくなりはじめてから、今日で24日目になった。僕は日に日に寒くなる中、雪が降っても道路が凍っても、いつだって相変わらず水色のカーテンを見ていた。それとなくあの家はどこか遠くへ引っ越してしまったのかと周囲の者に尋ねてみるが、誰もなにも知らないと言う。僕はすっかり途方に暮れて、路地のゴミ箱の裏でわんわん泣いた。僕がつけた名前を呼んで、彼女を思ってわんわん泣いた。質感も温度も全然違うだろうけれど、その青色のゴミ箱を に見たてて、寄り添いながらわんわん泣いた。暗示というのは強力で、何日目かにはそのゴミ箱に寄り添うだけで、 を眺めていたときと同じような暖かさを感じられるようになった。


あるとき、気がつくと夜だった。久し振りに意識のはっきりする真夜中だった。なので僕はまるで夢の中にいるみたいな、高揚してふわふわしたおかしな気持ちでそこから立った。僕が座り込んでいた場所は、大きな穴みたいにぽっかりと黒くなって、少しあたたかかった。 を見ていたのはいつも夜だったから、淡い期待と、またいないんじゃないの、という卑怯な保険をかけて僕はカーテンを見た。だけど、やっぱりなんの変化もなかった。僕は痛ましいほどの虚無感に襲われた。

すると、その死ぬほどの虚無感で俯いた僕の中の三つの選択肢に、ぱっと、「あの近くにいく」というものがゆらりと浮かび上がってきた。うそだろう、咄嗟に僕は僕の中の僕を否定したけれど、選択肢は点滅しながら僕に迫ったので、僕はあっけなく言いなりになった。後頭部が、まるでそこに心臓が引っ越したように熱くなって、眼神経全部が綱引きの要領で引っ張られる気分だった。


僕ははじめてこの路地から動いた。最初の半歩を踏んだところで、また頭痛がはじまった。でも僕はそのまま進んだ。窓はあまりに高いところにあって、僕の足でもそこまでの跳躍力は望めず、かといって周囲に足場になるようなところもない。僕はしばらくその場をうろうろした。すると、窓がある壁とは反対の、裏庭の方に、キッチンの窓が開いていた。寒さと緊張で激しくなる頭痛を、この時の僕は感じることもなく、躊躇い無くそこからひらりと家の中へ飛び込んだ。

歩くたびに頭はどんどん痛んだ。けれど不思議な高揚感が僕を満たしていた。しかしそれよりおかしなことに、ほんのすこし前まで明るく暖かだった(ように見えた)はずのこの家の中は、まるきりの廃屋だった。すべての家具がほこりをかぶり、くもの巣がはってねずみのフンが落ちていた。いつから掃除をしていないのだというほど汚く、誰も住んでいないみたいな感じだった。変だ、確かにこの前までは が住んでいたはずなのに。

しばらく僕は家の中をさまよった。使われなくなった寝台特急に乗り込んだような気分だった。小さな身体の、まして眼の悪い僕では、広い家の中で階段を見つけるのさえ困難だった。おそろしい。けど僕はそれ以上に に、その腕に逢いたかった。逢って、もっと至近距離で見たい。触れたい。そんな欲が、恐怖心を押し潰して涌き水のように僕からあふれた。僕が僕ではないようだった。けれど今ここにいる僕は紛れも無い僕自身だ。ちょっとだけ笑った。とろけるような想像を繰り返して、僕は2階へあがった。もしもこのどこかに がいたら、僕はその腕にくちづけて、ずっと見ていたことを告白しようと思った。

窓がある部屋を、僕は知らない。ずっとあそこから見ていただけで、この家にも近寄ったこともないし、だから階段を見つけるのにさえ手間取った。もう1度言う。あの窓がある部屋を、僕は知らない。はずなのに、僕の足はそれが当然のように、すんなりと動いた。これには僕も驚いた。僕は右奥の部屋の前で止まった。扉は前後稼動式だった。ドアノブまでジャンプする覚悟を決めていたら、それはそっと押しただけでギプスのような音を出して動いた。都合いいなあ、と僕は心ひそかにそう思ったが、幸運を神様に感謝した。

僕のはじめて芽生えた好奇心の前では、恐怖も頭痛も、既に無意味だった。さっきの冗談が、冗談じゃないみたいだ。僕は名前のない路地からここを見ているだけの、イフだらけの臆病者の僕じゃない錯覚さえ起した。右奥の部屋に足を踏み入れた僕は、一瞬立ちくらむような匂いにうっと顔をしかめた。部屋自体は今までのものとどこも変わりはなかった。カーテンと、ベッド。テーブルに棚がある。気がつくことといえば鼻が曲がりそうなほどの異臭。だけど他にはなにもない。僕の勘はやっぱりあてにならなかったらしい。きっとここじゃない部屋なんだ、そう思いながらふと見渡すと、そこには見慣れたカーテンがあった。水色のカーテンだった。僕は叫んだ。 の部屋だ!ここが、そうだ!と。

僕は思わずその水色に飛びついた。そして がたまにそうしていたように、カーテンにほんの少し頭を摺り寄せてみた。なにか解らないけれど少しだけ楽しかった。ところが、僕は違和感に気がついた。半分は美しい。だけど、その反対側のもう半分はぼろぼろに引き千切られて、布でも布切れでもなく、既にただの糸のかたまりだった。奇妙だ。元からこんなぼろぼろのカーテンだったのだろうか?けれど…、僕はしばらくずうっとあそこからこれを見ていたけれど、いつだって新品同様のきれいなものだったはずだ。なら、どうしてこんなにズタズタなんだろう。僕はしばらく壊れたカーテンと の窓を見ていた。

結局僕には見当もつかなかった。僕はいっこうに解けないカーテンの謎を諦めてその場に離した。なんだか無性に虚しかった。僕は僕が憧れ、愛して、熱望したはずの に一番近い場所にいるのに、虚しかった。もう1度部屋を見渡しても、カーテンしかない。それをまた確認したことで、余計虚しさを増やした。涙も出なかった。月が傾いてきたのが、窓から伸びる四角形がぐにゃりと歪むのでわかった。頭はどんどん痛くなった。抜け殻の部屋にたたずむ僕も抜け殻だった。かなしかった。

その時、ズキッと頭が痛んで、僕は突き刺されるような違和感を全身で捉えた。はんば鬱陶しくなってきた頭痛に、誰かが僕を見ているような、どこからか感じる違和感。教科書通りに、僕は背筋がぞくりとした。僕は振りかえった。だけど、わかりきったとおり、後ろには誰もいない。進む。また振りかえる。しかし誰も居ない。進む。進む。進む。もう1度、振りかえる。しかしやっぱり誰もいない。だけどやっぱりどこかに眼がある。僕はぐるりと、ではなく、慎重に部屋中を見まわした。すると、暗闇に慣れた僕の目はあるものを見つけた。扉だ。壁と同化していて暗がりでは気がつかなかったけれど、部屋の奥にクローゼットがあった。僕の喉がごくりと鳴った。

僕はそのまま扉に手をかけた。すると、ごとりと、なにか重いものが多数転がり落ちてきた。僕はあっさりそれに押し潰されて、押し入れを開けたら上から布団に潰された者のようになった。びっくりした。僕はその下でもがいた。もがきながら、それは布団のようなものではないのだけはわかっていた。それと、それまで部屋に充満していた異臭がいっそい強くなった気がした。抜け出た僕は見た。 だった。

心臓の鼓動より頭痛のほうが激しかった。僕を見ていた眼の正体は だった。けれど僕は飛び跳ねて喜んだりはしなかった。僕はそこまで狂ったりはしていなかった。正しい反応とは言えなかったかもしれないけれど、僕はしっかりと然るべき態度をとった。 、いや、正しくは であっただろう物体。僕はそれに押し潰されていたのだ。僕は尻尾が抜けて飛んでいきそうな気分だった。 であった物体は縦長だった。伸びるものがどこにもない、枕みたいな縦長だった。枕にだちょうの卵みたいなものがくっついていた。頭だ。はじめて見る の顔はそれほど重要視されるほど美を象徴するものではなかった。ごめん、と心の中で謝った。だけど は怒ったりしないだろうと僕は考えていた。既に腐っている顔を、美しいねと言われて喜ぶ女の子はいないはずだ。

僕は の胴体を抱きかかえていることに気がつき、悪いとは思いながらも異臭に我慢できず突き放した。うっかり僕の身体は崩れた肉片とぬるぬるする液体でまみれた。臭さに余計具合が悪くなった。僕はそんな中でも、胴体についているべきものを探して視線をさまよわせた。腕だ。僕の愛しいあのきれいな腕。おかしいほど僕は冷静だった。いや、冷静でいようとつとめた。このまま逃げてしまうと、何かとりかえしのつかない事態になりそうな気がしたし、とにかく の腕を見つけたかった。僕は収納扉の奥深くを見た。 の死体が今まで潜んでいた場所なので、なるべく入りたくはないのに、僕の足はまたしても勝手に進んだ。奥も入り口も真っ暗だった。月の光も届かないので、文字通り手探りの闇だった。

僕の身体の異変は徐々にはじまっていた。しつこいほどの頭痛は止まらず、走ったわけでも運動をしたわけでもないのに息切れが起こった。鳥肌が立ってつま先がぐらぐらした。おまけに脂汗のようなものをかいている。そんなに深いはずのないクローゼットが、無限に広がる洞窟に思えた。鼻は割れそうなほど痛かった。倒れ込むような、朦朧とした意識で、僕はやっとなにかを掴んだ。ぶよぶよしていて脆いものだった。ビスケットを割るように、ザクッと僕の爪が食い込んだ。肉のようなものだ。僕は咄嗟に腕かもしれないと思い、入り口まで引きずり出した。明け方になりつつあるので、いくらか物が見えるようになってきていた。だがそれは腕ではなく足だった。

あれから何度か同じようなことを繰り返して、僕の前には の頭付きの胴体・足・足の親指・人差し指・中指・薬指・小指が揃った。指は全部左右合わせて10本あった。僕の身体で人間の足などを運ぶのはかなり重労働で、ましてかなり腐っていてちょっと力をこめると崩れてしまうので、作業はとてもつらかった。そしていまだに腕だけが見つからなかった。僕は泣きたい気持ちになったが、泣くことはできなかった。身体中の毛並みは逆立って、匂いが身体にしみついていた。僕は貪欲にひたすら腕を探した。明け方の薄暗い光の中、僕はまた洞窟に入った。入って、入って、ずっと奥に行った。すべてのものが歪んで、2重にも3重にも見えていた。とはいえあたりには黒しかなくて、僕はがちがち寒さに震えながらおかしくなっていったのかもしれない。ただ身体はやけに熱かった。

ごつん、僕の頭が何か堅いものにぶつかった。腕じゃないなとは思えた。壁だった。行き止まりだ。僕は全部の道を探し尽くしてしまったようだった。腕はどこにもなかった。僕がほしいものだけが、どこにもなかった。僕は悲しさと理不尽さに途方に暮れて、暮れて、朝が来た。クローゼットに窓からの光が差し込んできた。僕が今までふらつきながら歩いた道を照らした。確認するような光だった。そしてそこにはなにもなかった。朝日に照らされた の破片たちは、暗いところでみるより余計不気味な色をしていた。僕はたまらず眼を逸らす。よく僕と同じ種族のものは、道端に内臓を出して転がっているけれど、傷ひとつ無くてただ間接からばらばらにされたものなんて見たこともないし、出来ればあまり見たくは無いものだった。

僕は壁に爪を立てた。 をこんなふうにした者がいるのかと思うととても黙ってたたずんではいられなかった。平穏だった僕から を取り上げて、平穏だった をばらばらにした者が心から憎く思えた。僕はもう1度壁に目をやった。すると、壁の際のところに小さく何かが掘ってあった。文字のようだった。僕は鼻水をすすると、じっとそれを見た。そして見なければよかったと、このあと心から後悔した。

そこには、『 』と記してあった。ナイフかなにかで掘ったような細い筋跡で、たったそれだけ記してあった。喉の奥がしめつけられた。僕は目と自分を疑った。けれども筋跡はくっきりと『 』の形をしていた。僕は床につまれた を見た。そしてまた奥に戻り、掘られた名前を見た。数回それを繰り返した。僕は指の神経が切れたみたいに、感覚のないまま僕のつけた世界にひとつしかない『 』という名前をなぞった。僕は弾かれるようにその部屋を飛び出した。



僕はいつもの路地に出た。そして、 に逢えなくなったときに泣いたように泣いた。声を上げてわんわん泣いた。僕は認めた。 をあんなふうにしたのは自分だと認めて泣いた。女々しく泣いた。朝焼けの色が僕にうつり、僕は絵の具でもぶちまけられたように真っ赤になっていた。頼りない僕の掌は、ほこりと汗で真っ黒だった。爪の中には木屑が入り込んでいた。それを見て僕は更に泣いた。そして全部を知った。知るというより、脳に直接まるでビデオを再生するように情報が送り込まれてきた。ひどいものだった。今涙を拭い払っている僕の手から生えた爪は、ただの猫の爪とは思えないほど鋭く伸びて、簡単に彼女の四肢をあんな風にしてしまっていた。

僕の人生は、見事なほどイフばかり転がっていた。そのイフが、もしものIFだけで済めばよかった。だけど僕の中に潜むもうひとつのイフは、畏れる恐怖の畏怖だった。自分でもうんざりしてしまうぐらい、意気地が無くものぐさな僕のまわりを取り囲んでいる目障りなイフだった。僕のしたいことをすべて先回りしてやってしまうイフだった。僕の知らないところでいつも誰かを傷付けるイフだった。彼は僕を苦しめることを楽しみにしていた。こうして僕が喚いている瞬間が、彼にとっての心から心地いいひとときで、今も僕の中で彼は高笑いをしている。払い除けようとしても出ていってはくれない。いや、そもそも僕はそのイフを払い除けることにすら、怯えて逃げ隠れているだけかもしれない。僕はいつだって臆病者なんだ。ごめん、ごめんなさい、 。僕のせいで。僕が、君を好きにならなかったら、君はあのまま毎日あそこで豊かに暮らしていたはずなのに。ごめん、ごめんなさい、 。僕の中の僕は僕が欲しいと思ったものや、好きになったものは全部壊してしまう。僕はこの数ヶ月、そのことを忘れてしまうほど君とその腕に焦がれてしまっていたんだ。そのせいで、 が僕の犠牲者になるなんて。僕のせいだ。ごめん、ごめんなさい。

僕の世界のふたつのイフが、ひたすらに僕を蝕む。僕は眩暈をこらえてありったけの後悔と謝罪をぶつけた。それでも彼女は戻っては来ないけれど、僕はコンクリートに額を擦りつけて喉から血が出るほど泣いた。そして僕の中で僕を嘲笑っている僕を殺してやりたいほど憎んだ。胸を殴り、頬を掻き毟る。いくら僕自身を傷付けても僕が痛いだけだった。僕はどうしようもないジレンマに大声をあげて泣いた。それから、八つ当たりのようにそばにあったゴミ箱を殴りつけた。倒れ込んだ箱からは、見慣れた2本の腕が転がった。




(2005/1/30 nine)