「ハッピーバスデイ、プリンセス!」

沢山の人が自分へ柔らかく微笑みかけたので、は、なんだか、とても複雑な顔をしてしまった。
しまった、と思ったけれど、その場の人間はあまり気にしていない様子で、盛大な拍手が渦を巻く。
なにも、たかだか誕生日で、ここまでやらなくてもいいのに。
は苦笑いを浮かべた。
まあ、悪い気はしない。

「プリンセス、プリンセス!」

フロアの中心にが立つと、ひとり、人好きのする笑顔を浮かべて近づいて来た青年がいた。
なかなかどうして、端正な顔だったけれど、には見覚えが無い。
戸惑いながら隣の侍女に視線を送ると、近頃やたらに手紙を送り付けてくる、隣国の皇子なんだと、彼女は囁いた。
(顔は、それなりに好みではあるんだけど半ばストーカー並みのしつこさなので、正直好きではなかった)


「プリンセス、あなたのために!どうです、美しい薔薇でしょう!」

彼はの目の前に真っ赤な薔薇の花束を差し出した。
そして両手を広げて笑うと、方膝を立て、まるで跪くような体制をして、にっこりと微笑む。
(なんて爽やかな男だろうか)

「ええ、あの、光栄です。ありがとう、…皇子」
「よかった!あなたに喜んでいただけるのが、私の幸せですから!」

挨拶は社交辞令。は、内心うんざりしていた。
誰かに好かれるのは嬉しいし、光栄だ。けれどあまり素直に笑顔が出なかった。

そもそもうちにはきちんとした薔薇園があるんだから、花束など貰ったところで感動も何もない。どちらかといえば、うちの薔薇の方が瑞々しく、美しい。これも、まあ、なかなかのものだけれど。

跪く青年を見ながら、彼女はその時そんな事を考えていた。
不謹慎ではあるけれど、事実、は彼の名前を知らなかった。それに加えて、彼に悪気はないのだろうが、やたらに人懐っこい笑顔への対処にも困っていた。
科白の中に少し間があったが、それでも彼はにこにこと笑顔を絶やさない。
彼がすっとの手の甲に口付けをすれば、その瞬間、また場内に拍手が跳ね上がる。煌びやかな包装紙にくるまれた真っ赤な薔薇の花束は、美しさを通り越して、妖しいほど自身を主張していた。

(参ったなあ…)

両手に持ちきれないほど、その薔薇を抱えて、は眉を顰めて視線を移した。壁によりかかって、口端を上げて笑む人間が、そこに居た。それは、楽しそうに。



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「折角の主役が壁の華か、

目の前で繰り広げられる、美しいパーティ。しかし、自身はどうもこういった大々的な催しが苦手でならなかった。数多くの貴族からダンスに誘われても、は全てを丁重に断っていた。

退屈そうに欠伸を堪えていると、アルコールの入ったグラスを傾かせて、男がゆっくりと近づいた。
先の、男。薔薇を受け取る彼女を見て、笑った髪の長い男。

「……わたしが、こういうの苦手なのは、兄上もご存知でしょう」

が少し吐き捨てるように言うと、男は、キリコはククッと喉を鳴らして、身を屈めた。
それから、高い位置にある己の双眸の前に、ゆるやかな手つきでの髪の毛を一房絡み上げる。
また、はじまった。
は、咄嗟に身を捩って離れようとするが、簡単に腰を捕まえられてしまう。

「やだ、やめて、こんな場で」
「フン、単なる兄妹同士のスキンシップにしか見えないさ」

おねがいだから、と訴えても、簡単に退けられる。
どうしようか。しかし、どうする事も出来ない。
あの時、薔薇を青年から受け取ったとき、壁に(いつものクセで)片足を押し付けて笑う彼を見て、少しだけゾクリと嫌な予感がしたんだ。ああ、それはやっぱり現実だったんだと、はぐっと唇を噛み締めた。
彼の 支配が また 始まる。
もう何度拒みきれなくているだろう?両の手では足りない。ああ、また今夜も自分は実兄に抱かれる、なんて忌々しい話。は今にも泣き出しそうな顔になった。

キリコはの肩にその冷たい掌を押し付けた。
少し強めに毛束を握り締め、吐息がかかるほど近くで、彼女の名前をぼそりと低く囁く。
の肩がびくりと震えた。
彼女が思わず声を上げそうになると、キリコは静かに、と手で隠しながらの柔らかな耳たぶを噛んだ。
(傍から見れば耳打ちをしているように見えるのかもしれないが、今のにそんな事を思い浮かべていられる余裕は無い。いつ、隣の人間に気付かれるか、は今にも崩れ落ちそうなほどに緊張していた)

「ほら、見ろ、あいつ。あの男はずっとお前を見ている」

眉を顰め、伏せ目がちに震えるを余所に、キリコは愉しそうに耳に吐息を吹きかける。
殴り飛ばしてやりたいほどに、の心は黒くなっていたが、そんな事は決して出来ないし、出来るはずが無かった。そんなことをする勇気があるのならば、とっくに、実行している。これだけの大人数の前で、実兄を思いきり殴り飛ばして、部屋へ走り去っている。そして、こんな忌まわしい関係からも抜け出せているのである。しかし、今のにそれは不可能だった。身分というものがある。そもそも今日は自分の為に、大人数が集まっていることを忘れてはいけないのだ。つまり、自分がこのフロアから姿を消す事は赦されないのだ。
も、それだけは解っていた。
こう見えても、
(我侭娘ではねっかえりなところもあるけれど)はそこまで自己中心的な人間ではない。

「父上はあれが大変気に入ったそうだ。…もしかすると、お前の未来の夫になるかもな」

指を刺して、あの男だとキリコは囁いた。
導かれた先にいたのは、薔薇をくれたあの、隣国の皇子だという青年だった。
思わず目が合うと、青年はまた柔らかい笑顔を浮かべて手を振った。

「じょ、冗談でしょ。嫌よ、結婚なんて」
「何故? なかなかいい青年だったぞ。剣の腕はそこそこ立つようでな」
「わ、わたし、絶対に嫌…!父上の駒になんかならないから!」

結婚? なんて、くだらないジョーク。
は心底嫌そうに顔をしかめて、心の中で思いきり毒吐いた。あの青年は悪い人間ではなさそうだったけれど、夫になるというのと、知り合うというのでは訳が違う! そもそも父上が気に入っている=結婚相手 という方程式が、には虫唾が走るほど理解できなかった。あの傲慢で汚らしい手口を使う父親が、は死ぬほど嫌いだった。自分にも同じ血が流れているのかと思うと、吐き気がする。彼女は以前侍女にそう呟いたことがあった。

「いい加減父上を悪く言うのはやめないか」

少し苛立ったような声色で、キリコは言った。
と違って、他の兄弟は全員父親の崇拝者であると言っても過言ではない。そのため、彼女が所構わずこういう科白を口にすることを決して赦さなかった。
特に、キリコは。

「それに、今は誰が聞いているかも解らないんだ。慎め」

キリコは肩に添えた手をずるりと背中へ動かし、肩甲骨をなぞるように指先を動かした。そうして、お仕置きだと囁くと、の背中にギリ、と爪を立てた。途端に彼女はビクッと震える。眉を顰めて、真剣に、痛いと後ろ手にキリコの服を掴んだ。それでも彼は止めることなく、力を強めていく。

「あ、兄上、…っ、いたい、痛い…っ」

が堪えきれず息を吐いたところで、その行為は終わった。

彼女の長い髪の毛で隠れているが、爪を立てられた個所から血がにじみ出て、少しヒリヒリと痛む。
(まわりの雑音でよく耳をこらさないと聞こえないほどのものだったけれど、彼女にしてみれば精一杯の悲鳴だ)
キリコはまたクク、と喉を鳴らして指先を傷跡に擦り付けた。
彼女が「ひっ」と目を見開くと、その悲痛な声に、満足そうにキリコはニヤリと口端を上げた。
はしまったと口を押さえたが、もう遅い。

スイッチが入った。
彼は 確実に 愉しんでいる。
はゾクリと背筋を震わせた。生唾を飲み、喉に冷や汗が流れる感覚に襲われる。
多分、この後はもっと酷いものが待っているに違いない。今背中にある傷は序の口。きっと明日の朝のシャワーは死ぬほどの痛みを伴うんだ。いつも、そうだ。もしかすれば、朝のシャワーすら間に合わないかもしれない。


、抜け出すぞ」


ああ

ゆっくりと耳元で囁かれた甘いバリトンに、は痛みの中ぎゅっと目を瞑った。
閉じる際、涙で歪む世界に、あの青年の笑顔を見た気がした。


きっと、宿命や、運命という単語で終わらせてしまうにはあまりに遅い。
初めこそ恐ろしくて逃げ出したくて居た。
しかし、すでに腕を捕らえられれば身体は瞬時に硬直して、耽美な声色は鎖になり、その動きを制止することはできなくなって、わたしは簡単に繋がれてしまう。
この手を振り切れない理由は、そんなものは、わかっているのだ。本当は。

わたしが彼の支配下から逃がれるには、ほんとうに、時間が経ち過ぎてしまった。





こんな関係が続く原因は、きっと、わたしにあるのかもしれない。とは思った。
忌々しい なんて 歪んでいるんだろう。

強姦からはじまる恋で、相手が実の兄だなんて、御伽噺にもなりはしない。






in distorted