身体から、滑り落ちるように熱が過ぎ去っていった。まるで、思いきり張り手をくらった頬に、逃げ失せた身体中の熱が集結しているようだ。思考がはっきりと動き出したとき、そこに妹の姿はもうなかった。妹が自分へ投げつけたコーヒーカップとその中身が、見事に床に散乱していた。上物の絨毯に茶色い沁みが広がっていた。
その場に呆然と立ち尽くし、追いかけることは出来なかった。足が凍ったように動かなかった。妹と過去に何度も言い合いをしたことはあるけれど、手を上げられたことはなかった。いつだって自分の横で微笑んでいた従順な妹。ここまで怒らせたことも、ひっぱたかれたのも初めてだった。
じわりと痛む頬が居た堪れない。長い髪を薄く指でかきあげ、ソファに腰をおろした。ずるずるとだらしなく背中に体重を預けると、柔らかく一緒にゆっくり沈み込んでいった。
「ばかね」
ひやりとした冷たい掌がまぶたの上に乗せられて、せせら笑うような響きがした。しばらくそのままの体制で、キリコの意識は途切れていたようだ。はじめは妹が戻ってきたのか、と甘い考えがめぐったが、嗅ぎなれたフレグランスの香りで、再度キリコの身体から熱が引いていった。
思わずキリコは唇を噛んだ。
。
今一番そばにいて欲しくない相手だった。彼女にだけはこんな姿を見られたくないと思っていた。
「ほんとうに、諦めが早すぎよ。あのつぎはぎのお医者はまったくの逆で、暑苦しいと思うけど」
「何の用だ。帰れ」
「かわいそうな男。ばかだわ、笑っちゃう」
「うるさい、うるさい黙れ。今日は仕事じゃない。何で来た」
無理矢理にでも手を振り払おうとした。すると今度は熱を帯びた頬に冷たい手が移動する。うふふ、と低音で鼻にかかったような笑いをすると、ひたひたと軽く両頬を叩かれた。
「私の情報網をみくびらないで。と言いたいけど、ユリに一部始終聞いただけ」
「これは俺達の問題だ。首をつっこむな」
「やだ、こわあい」
ふざけた声色でまぶたから掌が外された。薄い皮越しに眼へ降り注ぐ光が、ひどく眩しく感じられた。軽く眩暈を覚えながら、視界を広げて行くと、背後に佇んでいたは、ひらりとキリコの目の前のテーブルの上に飛び乗り、長い足を組替えながらニタリと微笑んだ。その仕草はひどく艶やかなものだった。しかし、今のキリコには、ただの起爆剤でしかない。猫のように、蛇のように、は微笑んでいた。
「身内の不幸を嘲笑いにきたのか、それとも俺を嘲笑いにでも?」
「自分で殺しておいて、何偉そうな口きいてんだか」
「――、仕方なかったんだ。第一、他人のお前には関係無い」
「いやね、頑ななんだから」
つまらないわ、とはキリコに靴底を向ける。蹴り上げるようなふりをして、彼女はテーブルから飛び降りると、キリコの隣にぺったりと寄り添った。片手で銀色の流れるような髪の毛を弄ぶ。毛糸にじゃれる子猫さながら。この子猫にしては大きく、背の高い、次にどんなアクションを起こすか、まったく予想がつかない女が、キリコはひどく苦手だった。
「ねぇ、後悔してるの?」
大きな瞳をゆらゆらとゆがませながら、はキリコの耳元でゆっくりと呟いた。
「ばかばかしい、そんなものするわけがない」
「そうかしら?」
「初めから親父には安楽死を施すつもりだった。後悔するなんてありえない」
出来るだけ、低い声で平静を装った。途端にキリコの頭の中を、すべての光景がめぐった。父親を連れて自分の元を逃げ出した妹、無駄だという制止も聞かずに手術をしつづけたブラックジャック。泣きすがる妹の横で、苦しみにもがく父親の表情、掠れた声。
ぼんやりと視界が歪み出す。
「ふふ、嘘ね、嘘。わかっちゃった」
は長い黒髪を無造作にかきあげた。鈍い動作でキリコの膝に乗ると、ひたりと首に腕を回す。そのままにんまりと微笑みかけて、体重を預けた。左耳に顔を近付け、彼の馨りをゆっくりと吸いこむ。ぼそりとした呟きは、微かに嘲りを含んでいるように思えた。妖艶な音色は、そのままキリコの中に吸収されていった。嫌味なぐらいに雌を感じさせる独特のフレグランスに、眩暈がする。
「あなたは今ひどく後悔してる。私にはわかる」
「違う」
「眼を逸らしてはだめよ、かわいそうなひと」
「黙れ」
「かわいそうなキリコ。誰よりも優しいキリコ。ただ楽にしてあげたかっただけなのに、安らぎを与えてあげたかっただけなのに、2人にひっぱたかれて」
「やめろ、いい加減にし」
「ねえ、何をそんなに怖がっているの?ユリに一生恨まれるかもしれないから?たったひとりの、肉親で、大事な大事な妹に嫌われるのが、そんなにこわい?」
「やめろ!ちが、う、やめてくれ」
「あなたって、とっても中途半端」
はキリコの首に伸ばした腕を引き、骨が軋むほど、彼の半身を掻き抱いた。やめろと叫び振り払おうとする努力すら報わせなかった。そのうちに、ぽたり、ぽたりと手首に水滴が落ちた。はとても、満悦そうな顔をしながら、更にいとおしそうに腕に力を込める。そうして、既に反抗さえしなくなったキリコの頬、耳の裏、髪へと順々に唇を落とす。夕暮れの暖色は、魔女のような、妖しくも美しいの顔を浮かび上がらせた。
「ばかな男、愚かで、救いようが無い」
「…」
「だから、すきよ。あいしてる」
ユリが見放しても、私が傍にいてあげるわ、とは呟き、頬擦りをする。キリコの身体からゆっくりと力が抜ける。微かな嗚咽と、甲高い笑い声が室内に充満していった。
粒子のようにさらさらと
2004/01/09
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