つ め た い 部 屋 「お茶、飲むなら淹れてあげるよ」 すうっと伸ばされた冷たい手のひらが、キリコの握られた拳を包んだ。 あまりの冷たさに、少し驚く。それで覚醒した。 「ああ…頼む」 ―― が部屋に入ってきた事など、気がつかなかった。 長い髪をかきあげると、卓上の時計が、すでに夕暮れの時間に差し掛かっているのが見えた。 今日は1日カルテと向き合っていた。ぼんやりとして背もたれに体重を任せる。軽く背伸びをしただけでも、骨が軋むのがわかった。そのまま、目を閉じて完全なる覚醒のための準備をする。しばらくすると、コンコン、と控えめなノックがして、脳が欲しがっている甘い香りが漂ってきた。 「砂糖、ふたつにしておいたから。甘いけど、落ち着くと思う」 「いや丁度いいさ。ありがとう」 新聞やカルテを見るときにだけ着用する、細長いタイプの眼鏡を外し、少し熱い紅茶を受け取った。指先にじんと熱が沁み込む。 いつのまにか暖房がきれてしまっていたらしく、この部屋はひどく寒い。(だがそれも殆ど気がつかず、今になって改めて実感しているだけに過ぎないのだけれど) 「…もう座ってもいい?」 隣、と無造作に書類やファイルが放り散らしてあるベッドを指差す。「ああ」と短く返事をすると、一度自分の紅茶をデスクに置いて、 は書類の整理をはじめた。 「たまにはきちんと片付けて欲しいけど」 ぼそりと呟いて几帳面にもきれいに、きちんと重ねられた紙の束を適した場所へ片付けてゆく。ファイルの向きや位置も完璧にそろえて。それから、なるべくキリコの近くにゆっくりと腰掛けた。 「寒いね」 は、カップの縁に口をつけたまま、はにかむように笑った。 湯気と白い吐息が、混じって、冷たい部屋に溶けていく。 「暖房がきれたことにすら、気がつかなかった」 「朝から、すごく、集中してて。話しかけても聞こえてないみたいだったの」 ご飯もトイレもいつ済ましているのかわからなかった、とくすくすと笑うの、鼻と頬が少し赤くなっている。 「寒いなら居間に居た方がいい。ここのは、灯油がきれたみたいだからな」 補充しに行くのすら面倒だ、と二口、三口甘い紅茶を飲む。 「せっかくこうして話ができるから。一緒がいいの、キリコと」 そうやってまた笑われたら、一体どんな反応を示せばいいんだ、とキリコは内心苦笑した。 はそんな彼の心の中を知ってか、知らずか、やわらかい微笑みを浮かべている。少し、心地いい雰囲気と沈黙が流れてゆく。こんな時間も悪くはない。 「あ」 しばらく無言の心地よさに酔って、ほんの少しまどろんでいた時、ふいにが声を弾ませた。 ベッドの上に膝立ちになり、小窓を、自分の袖で丸く拭くと、顔を近づけてその円の中を覗きこんで嬉しそうに振りかえる。 「見て、見てキリコ。雪、ゆきだ」 軽やかで、無邪気で、あどけない笑顔。 キリコが一番好きな表情で振りかえり、急かすように名前を呼ぶ。その声につられるように、ギシッとスプリングを弾ませた。後ろから、を包むように立つ。 「すごい、ゆきが、降ってる」 「ああ、雪だな」 「綺麗だ。すごく綺麗。初雪だよ、すごい」 「今日はひどく寒かったからだろう」 「積もるかな、どうだろう。積もったらいいなあ、積もれー!」 「こら、窓を開けるな。もっと寒くなるぞ」 「いいの!雪だもん!」 まるで南国の子供だな、と心の中で笑う。 ただ今年初めての雪だというだけで、去年も、おととしも、何度でも見ている自然現象なのだ。だが、目の前の少女は、この出来事にこれだけ目を輝かせている。おかしな女だといつも思っていたが、今日はとくにひどい。笑いを堪えるのでたまらない。けれど、寒い部屋で窓を全開にし、入り込んでくる雪に笑う少女を、素直に愛しいと思っている自分が確かにここに居る。死神の化身と呼ばれる俺がだ。気がつくと堪えていた笑いが声になっていた。ああ、もう死神だとかそういうことはしまっておくとしよう。今はのことだけを考えていたい気分なんだ。 「寒いな」 キリコはが先に言った台詞を真似、柔らかく後ろから抱きすくめた。彼の長い髪が、の首筋にさらりと落ちる。 「うん、でも背中はあったかい」 も、特に拒否するでもなくみぞおちあたりに回された、キリコの骨張った手に触れた。相変わらず、ふたりの手は指先まで冷たい。 「窓、いつまで開けてる気だ」 部屋に雪がつもるだろう、とキリコは の首元に顔をうずめ、目を伏せる。 香水のようなつくりものではない香りがキリコを充満させてゆく。 しかし、まだ足りない。 欲しいものはこんな香りじゃない、もっと別のものだ。 わかっている。 「こっちのほうが、あったかいよね」 ふいに が、くるりと身体の向きを反転させて、すっぽりとキリコの胸に収まった。そして、さっきまでの完全に純粋な笑みではなく、どこか、裏があるような、口端を少し上げるだけの笑みを向ける。それから、目を伏せ、少しだけ首を伸ばして、ついばむようにキリコの薄い唇へふわりと触れた。それが合図になったかのように、今度はキリコの方から少し強く唇を押し当てる。何度も角度を変えて味わいながら、キリコは腕を伸ばしふたりの空間に侵入してくる粉雪をシャットアウトした。 白い熱を帯びた吐息を生み出しながら、ようやく を離すと、蒸気した頬が桃色に染まっていた。少し、息も荒い。 「すけべ…」 力の抜けた身体を、そのままベッドの上に組み敷くと、精一杯の抵抗のつもりか、いつもの憎まれ口が聞こえた。 わざと聞こえないふりをしてもう一度口付ける。 「ん、…するの?」 「しないのか?」 少し鼻で笑ってやると、「このやろ」と呟いて顔を隠す仕草をする。 さっきよりも強く思う。 愛しい。 たぶん、この気持ちは止まらない。 「してもいいけど、約束して」 「なんだ」 ゆっくりと、まだ冷たい素肌に触れた。 するすると手を滑らせながら、低く呟く。 「終わって、もし雪が積もってたら…、雪合戦しようね」 冷たい部屋だった場所で。 |