good moon



私は知らなかった。
ニンニクが苦手で、十字架に触れると身体が溶け、日光にあたると灰になり、闇に生きて、生きた人間の血をすする化物は、伝説の中のツクリモノだと信じて疑わなかった。
当時、ヴァンパイアによると思われる事件が相次いで、血を吸い尽くされた死体がどう、とか、街が騒がしくても、どうせハッタリだと思っていた。
その頃の私は、世界のことを何も知らない無知な女だった。


今から、何世紀前の話だろうか。
とある冬のフランス。
雪が街に降り積もった日に、私は人間の世界にさよならを告げた。






とても良い満月が出ている夜に、私はひとり道端に転がっていた。
腹に、穴が開いている。
肉が抉られて開いたそこから、生温い液体がとめどなく溢れている。内臓のどれかには、たぶん、熱をもった鉛が、まだ埋まっているのだと思う。痛みという感覚さえ解らなくなるほど、身体が熱くなっていた。ひどく痺れている。
まわりには誰もいなかった。
居たとしても、私のような女の――、娼婦の死体は誰かが役所に問い合わせるか、虫や動物に食べ尽くされるまで放置されたままになるのがオチだった。
野ネズミと満月が私を見下ろしていた。
もうじき死ぬだろうというのに、心臓の鼓動がとても強い。
グラスに注がれる赤ワインのように月に照らされて輝く、大切な液体がゆっくりと失われてゆくのがわかる。いっそこのまま死んでもいいと思って、私はゆっくりと眼を閉じた。



まだ若いながらも、私は娼婦をしていた。
昔、まだ何も世界を知らない幼い頃に、家の為にちっぽけな量の金額で知らない国に売られて、下劣な趣味の大人の玩具になって、ボロ雑巾のような扱いをされてきた。
娼婦小屋の中でも一番年若いのに、遠い東の島国生まれの私は、見た目と言葉の不自由さが災いして、あまり客を取れなかった。そのため、ブロンドや赤毛の揺れる長い髪を結い上げて、はっきりした目鼻立ちをした他の娼婦達からはいつもいびられ続けて、友達も誰一人いなかった。
正直、客を取るのは苦痛だった。
死ぬほど嫌だったが、それでも私はそれしか生きていく術を知らなかった。
家族の顔も、名前も、何もかも知らない。
唯一知っているのは、自分の名前―― ――だけ。
私には、ブタ小屋のような娼婦小屋しかあてがなかった。その時の私は、嫌でも客をとらないと、見捨てられると思っていた。私にとってはその地獄のような娼婦小屋が、たったひとつの家族だった。

けれど、その、初めて街に雪が積もった日に、私の思いは軽々しく踏みにじられた。
私は体内に鉛を撃ち込まれた。
羽交い締めにされ、抵抗もできずに野ウサギのように。
理由は、簡潔だった。
その日言いつけられた人数の客をこなせなかったからだ。
撃ったのは、私達、娼婦の主(あるじ)、本人だった。幼い頃、遠い東の島国から私をはした金で買った男だった。随分ひどい扱いをされたが、私にとっては父親の代わりの存在だった。
ニヤニヤと、いやらしく笑いながら彼が指先を動かすと、次の瞬間、私の腹にはぽっかりと穴が開いて、古びたボロボロの、色褪せたドレスがキレイな赤色に染まって行った。それから、主は娼婦たちに命じて、私を路地裏の道端に捨てさせたのだった。



思えばこれが生まれ変わりのきっかけだった。




彼らは私が死んでいると思っていたようだが、撃たれた場所は奇跡的に急所を外れていた。
(それでも危険な状態には変わりないけれど)
ぐるぐると頭の中をいろんな情景が巡っていると、破れた内臓がズキンと鈍く痛んで、堰と一緒に真っ赤な血が一面に広がった。
一度なくしていた感覚が、今更になって蘇ってくる。
私は立派な死に損ないだった。


「そのままだと死ぬぞ」

人が来たと思われる音などしなかったはずなのに、ふいに頭上から、氷のような冷たい男の声が降ってきて、私はうっすらと眼を開けた。意外な事に視界はまだ鮮明だった。

「死にたくないか?」

最初に見えたのはゆらゆらと妖しく光るふたつの宝石だった。それから、夜に映える真っ白い雪のような肌、金持ちの貴族でもなかなか持ち合わせないような美しい金の髪や、こぎれいな洋服には私の真っ赤な血が染みついていたり、ゆっくりと目の前の者の形がわかってくる。
どれも初めて見るような美しさだった。

「しにた、く、ない」

搾り出したような声は掠れていたけれど、不思議に苦しくはなかった。諦めかけて、手放しかけていた感情が戻ってきたようで、心の中は生きたいという単語でいっぱいだった。同時に、また身体の奥がズキンズキンと痛み始める。

「君を楽にしてやろう」

美しい男はゆっくりと私を抱き起こした。これから死ぬ私よりも、男の手ははるかに冷たかった。それが、熱をもった頬に触れると、ひんやりとして気持ちがいい。
私は無意識に軽く頷いてしまっていた。
彼はニヤリと薄く笑った。
それからすぐに目の前が真っ暗になって、世界が一度ぶつりと途切れた。




目が覚めると、そこは天国でも地獄でもない場所だった。
てっきりどちらかの世界にお世話になりにいくか、永久に目覚める事はないかのどちらかだと思っていた。しかし、そこは、ふかふかの柔らかい、清潔なベッドの上という今までの人生で初めての場所だった。

「ああ、起きたのかい」

起き上がると突然また声がした。氷の美しさを持った男が、いつのまにかベッドの端に座り足を組んでいた。ウェーブのかかった髪が風も無いのにさらさらと揺れている。

「…あ、なた、誰?」

血で染まっていたはずの古いドレスは消えて、真新しい、純白の高そうな、柔らかい素材のドレスが私を覆っていた。更に驚いたのは、いいえ、驚いたなんて言葉じゃすまされないことだ。さっきまで腹に開いていたはずの穴が、きれいに痕も無く消えていたのだ。あれほど熱かった身体が水の中に居るように冷たい。心地よいとまで思える。混乱する私を見て、心底楽しそうに美しい男はクツクツと笑い出した。

「ヴァンパイアさ。名は、レスタト。ヴァンパイア、知っているだろう」

ニヤリと笑うと彼の歯が見えた。
2本の鋭い、動物の牙のようなものが目立っている。
―― まさか。
急に背中がひんやりとして、気味が悪くなった私は、咄嗟にベッドから飛び出そうとした。しかし、まるで動きを先読みされていたようにドアの手前で捕まえられた。華奢な手で私の腕をねじ上げる。それからベッドの上に思いきり投げられ、彼――レスタトは私の上に覆い被さるようになった。腕は両方ともどこから沸くのかというほど、強い力で抑えつけられていた。全身の血の気が引いていくのがわかった。恐怖が私を支配していた。本当に怖いと感じたときは、声も涙も出ないのか、と安易に感心さえしていた。

「自分の身体が、今までと何処か違うとは思わないか?」

レスタトは、動物的な、野性的な眼をゆらりと歪ませて、耳元で一言ずつゆっくりと紡いだ。すぐに視界には彼のブロンドと天井しか見えなくなったが、まるでその眼は毒蛇のような鋭さをしていた。

「ふふ、すぐにわかる。少し待ちなさい」

私が身体を固まらせて黙り込んでいると、レスタトはするりと離れ、部屋の脇にある綱を引いた。それは、前に客の家で見たことがあった。メイドを呼び寄せる合図だ。
すると、予想通りすぐに
30代前半ほどの女性が訪れた。レスタトは、そのメイドと二言、三言言葉を交わすと、突然彼女の口を塞ぎ、首を思いきり曲げてはいけない方向にひねった。
私は更に身体が硬直した。

「さあ、初めての食事だ」

レスタトはまだひくひくと動く――微かに生きている――メイドを私の目の前に落とした。

「今までに知らないような渇きだろう」

早くしないと死んで、飲めなくなると、彼はまた笑った。
あらぬ方向に首が曲げられている人間は、とても気持ちが悪い物体だった。それが目の前にある。
怖くないわけはなかった。
しかし、少しずつ自分の中の変化に、私は気づいていた。
私の中はひどく渇いていた。
それは喉が、とか、どこが、とか言い表せるものではなく、言うならば身体全体が餓えている。細胞のひとつひとつが、何かを欲して、耳鳴りがする。それはサイレンのように。

「わからないか、まあいい。私が教えてやろう」

寄り添うようにレスタトは私の隣へ座った。親指にはめている変わったプラチナの指輪は、先が鋭利にとがっていて、彼はメイドの手首に浮き出た太い血管へ、それをぶつりと刺した。途端に真っ赤な、さっき私から流れ出ていたものと同じ色の液体がどろりと滑り落ちた。
その色を見た途端、心臓の奥が強く跳ね上がって、みるみるうちに細胞の渇きはひどくなっていった。突然だった。まるで、自分の身体ではないようなジリジリと追い詰められる感覚に襲われた。骨が軋んだ。筋肉が収縮し、すべてが波打つ。

「ゆっくり、吸うんだ。あまり吸いすぎてはいけない。…できるか?」

優しく、諭すようにレスタトはとぷとぷと赤が溢れる腕を私に持たせた。身体が、まるで昔からそうすることを知っていたかのようにしなやかに動いた。唇が、まだ温かいメイドの肢体に触れ、薄く開いた隙間から今まで味わった事も無い、胸が焦がされるほどの液体が流れ込んで、疼いて仕方が無かった細胞たちに染み渡ってゆく。全身が歓喜の雄叫びをあげていた。私は夢中で、赤ん坊のようにメイドの血液を吸い上げた。

「ああ、もうそこでいい。やめなさい、もうおしまいだ」

その声に、自分でも驚くほど素直に従い、吸うのをやめた。口の周りは真っ赤だっただろう。私は軽く手の甲でぬぐうと、付着した最後の一滴まで舐め尽くした。

「キレイに飲めた…とはいかないが、残さなかったな。上出来だよ」

レスタトはさっきまでの意地悪そうな、妖しげな笑みではなく、きちんとした微笑みを私に向け、ゆっくりと頭を撫でた。
私は美青年に微笑まれたことよりも、身体中をかけめぐるメイドの、成熟した大人の甘い芳醇な血液に酔いしれて、身体が落ち着くまで、いつまでもレスタトに寄りかかっていた。

「どう、して、私をヴァンパイアに?」

ゆっくりと呼吸を整えながら、私はレスタトのシャツを掴んだ。
もう、ほんの数分前の、レスタトに怯えていた私は、どこかへ消え去ってしまっていた。

「ふふ。死にたくなかったろう?それに、いい眼をしていた。憎しみに溢れながらも憂いに満ちた眼だ。死にゆく者の眼にしては、惜しかった」

レスタトは、じっと眼を見つめると、また妖しく笑って私の骨格をなぞるように細くしなやかな指を滑らせた。従うように大人しく眼を瞑ると、彼の薄い唇がまぶたについばむような、口付けをした。


消え去ったというよりは、
死んでしまったという方がいいかもしれない。
これが私の生まれ変わった瞬間だった。





さて、後日談をしよう。

化物になったという事実は、案外、すんなりと受け入れる事が出来た。姿形は大きく変わっていた。とは言っても、気味の悪い下等な化物の形ではなかった。
私は眼を疑った。
冴えなかった顔立ちが、勿論、フランス人のようなくっきりした目鼻立ちではないけれど、色白のキリリとした涼しげな面持ちの美しい顔になって、あまり質のよくなかった、この国では目立つ真っ黒い髪の毛は、夜と同じ艶やかな光を放ち、妖艶に揺れていた。まるで別人だった。あのボロボロの小汚いドレスを着ていた娼婦のだとは、誰も信じないと思った。レスタトはそんな私を、すさまじい変わり様だと笑っていた。姿は変わっても、名前だけはあえて変えなかった。中には、自分で新しい名前をつけるヴァンパイアもいるらしいが、私にはきちんと授かった「」という名前があった。遠い母国の言葉で、見慣れない形の文字が、私は気に入っていた。

それから私は、彼に沢山のことを学びながら行動を共にしていた。レスタトは私がそれまで着た事も無かったような美しいドレスをいつも買い与えた。ピアノを習い、バイオリンを習い、社交界のマナーやヴァイパイアについての知識、それから沢山の語学、私は世界のことを学べるだけ沢山学んだ。時間はたっぷりとあった。娼婦小屋の生活とは、まるで真逆だった。世界はめまぐるしく変化し、日々鮮やかにまわり、時が経つのが物凄く早く感じられた。私はレスタトの大きな愛情をたっぷりと注がれて、新しい人生を送っていた。血にも餓えていたが、私は愛にも餓えていた。レスタトは私が望むもの、両方を与えてくれた。私も不器用ながらも、レスタトに愛情を注ぎ込んだ。
孤独だった者同士、すぐに
2人共互いに夢中になった。
それは俗に人間が使う「愛している」という感情よりも、はるかに高貴なものだとレスタトは言った。



2人とも狩りがとても好きだった。
初めは上手く出来なかった私も、時が経つにつれてレスタトと同じように相手を弄ぶことを覚え、どんどん好きになっていった。とりわけ最初の吸血が女性だったからか否か、男よりも、美女の血を吸うのが好きだった。彼はいつも私がうまく狩れる度に嬉しそうに髪や頬に口付けていた。
時には、レスタトは貴族の美女を捕らえ、私は金持ちの美少年(美青年)を捕らえ、交換して美味しくいただくこともあった。
ある日の食事時。
いつものように食べ終えて、きらびやかなパーティ会場の近くにある湖のほとりで、レスタトは、私よりずっとずっと前にヴァンパイアになったと教えてくれた。私の膝に乗せられた冷たい肌は相変わらずだった。化物も人間も、隣に誰かがいるというのは幸せなことだと私が言うと、彼はまた皮肉っぽく口端を、口角を少し歪ませた。
レスタトが笑った意図はわかっていたが、少し悔しかった私は彼の口元に残っていた美少年の血を少し、舐めやると、彼は私の髪の毛をぐいと引っ張って、同じように美女の血を舐めた。

化物になってからの人生は、昼間は出歩けないが、まるで輝いていた。幸せだった。


私がヴァンパイアになってもう数十年が経とうとしている。
相変わらず私はレスタトと寝食を共にしながら生きていた。
幸せはずっと続いていた。
以前、レスタトにあのまま死にたかったかと聞かれたことがあったが、それは愚問だと思っている。
今の煌びやかな世界を手放したくは無かった。
決して老いることはなく、死ぬことも無い。まさか、総てが楽しいことばかりではなかったけれど、私は今とても幸せなのである。

今、私はレスタトとニューオーリンズへ向かっている途中だった。以前にふらりと赴いた農園で、とてもいい人材を見つけたのだとレスタトは嬉しそうに語っていた。私はいつものごとく従順に彼の言う事をきいた。
すでに、レスタトが私のすべてになっていた。
肉体も精神も、彼の思うように、すべてが彼の色だった。彼だけが私の生きる理由だった。


愚かで無知な私は、この先に待っている惨劇を今はまだ知らないでいた。
ただ夢中で、何の疑いも無く、レスタトを愛していた。

―― ルイとクローディアに出逢うのは、もう目の前に迫っている。





end.