ゆ く す え

「こんなところに居たのね」

顔をあげると、見慣れなた東洋の美女が手を差し伸べていた。

「身体によくないわ、そんなに濡れていては」
「…病気すら逃げて行く身体だ。そんなの心配ないよ」
「雰囲気の問題よ、ばかね」

彼女は――はため息混じりに微かに笑うと、散らばった小動物の死骸を、鼻をつまんで心底嫌そうに足蹴にし、隅へ除けた。それから、少し小さめの洒落た傘をひらいて、――拗ねた子供のような――絶望的な顔をしたルイの隣にしゃがむ。

「お飲みなさい」

は、ルイの骨格に指をすべらせ自分の方を向かせると、黒いコートの内ポケットから赤い塊を取り出した。輸血用の血液パックだった。細く白い指でそのパックを揺らす。透明な袋にたっぷりと注がれた焦がれる
は、たぷたぷと妖しく揺れ波立ち、ルイを誘った。

「もういつまでも意地を張っていることは、賢明ではないわ」

は、ルイの喉が微かに動くのを見逃さなかった。ゆっくりと切れ長の瞳が柔らかく歪む。

「い、やだ」

ルイは、パックへ伸ばしかけた手を、ずるりと身体の脇に引き下げた。自分の奥にある何かを振り払うようにぶんぶんと頭を振り、脳をシャッフルさせる。

「いつまでもネズミや鳥ばかりではいけないわ」

はため息をつくと、さっきからあたりを動き回るドブネズミを一匹捕まえてルイの目の前に差し出した。――もちろん、ハンカチで包んで。彼女はよほどこの手の動物が嫌いなのがわかった――
ルイは口の端から溢れた唾液――それも、雨と区別がつかなくなっているけれど――をぬぐおうともせず、の手からネズミを奪った。

「今はいいけど、あなたはこのままじゃダメになるもの」
「…レスタトは、好きな血を漁れと言ったよ」
「あれは、あなたが自分無しじゃ生きられないと身をもって痛感させるための、嫌な、性悪の男がよく言った台詞だわ」
「珍しいね…君がレスタトを悪く言うなんて、初めて聞いた」

さあ、そうだったかしらとは口に手をあてて笑った。
ルイは、がてっきりレスタトの崇拝者なのだとばかり思っていた。まだルイはレスタトからを紹介されて日も浅いが、いつものを見ていれば、彼女がレスタトを愛しているのは手にとるようにわかった。また、レスタトの方も、この少女と大人の女の狭間を、ふわふわと飛び交う神秘的な美女に愛を注いでいた。

「いつまでも子供じゃないんだから。抵抗しても無駄なのに」

本当にバカな子、と呟いて、はパックの挿入口にビニールのストローを差し込むと、ゆっくりと内容物を吸い上げた。すると、月の明かりの所為でいつもより青白かった肌が、少しずつ薔薇色に染まり、美しさが増して行った。ネズミの死骸から漂う死臭の中に、一筋の胸が焦がれそうなほどの馨しい薫りが漂う。
眩暈がした。

「君は、人を殺すのに躊躇いが無いのか」

ルイはから奪ったネズミの血を吸い尽くすと、イラついたようにそれを地面へ投げつけた。
彼が以前に見た2人の狩りは、実に連携がとれていた。見事だった。の狩り方は実にレスタトとよく似ていた。獲物をまるで玩具さながらに弄び、自分に陶酔させてから、残虐に、命の灯火を、まるで彼女が好んで履いている、高く鋭利にとがったヒールで踏みつけるようにいたぶり、楽しんで血を吸い尽くす。

初めてその光景を目の当たりにした時、ルイはひどく絶望した。
いや、既に「絶望」の二文字で片付けられる感情ではなかった。

彼女の持ち前の黒い美貌に、自分たちヴァンパイアが心から欲情する赤が加わり、その空間は異様な雰囲気で溢れかえっていた。ごろごろと無造作に転がっている死体の中央で、彼女が口の周りから胸元を真っ赤に染めて振りかえり、大輪の花が咲き誇るように笑って見せたとき、ルイは身体中が逆立ち、凍り付き、しだいにひどい筋肉の痙攣と嗚咽を止める事が出来なくなった。
満悦に笑いの頭を撫でるレスタトと、死体を抱えながら微笑む血染めの彼女。悪夢のようなひどい惨劇が、ずっと脳裏に焼き付いて離れないで居た。

ルイの問いかけに、は、一度うーんと唸って、どうかしらね、とだけ返した。パックの中身はゆっくりと減ってゆく。その返答に得体の知れない感情で、みるみる内にルイは埋め尽されていった。立ちあがり、身体が雨でずぶ濡れになるのも構わず、髪を振り乱しながら大声を張り上げた。

「なぜ、殺せる。どうして?僕らだって昔は人間だった。なのになぜ簡単に命を奪える。僕には理解できない!」
「ルイ」
「僕は君達のようにはなれない、絶対に、無理だ」
「やだ、ルイ、ちょっと」
「無理だ!僕は人間を愛している!殺すなんて、できない!」
「少し落ち着きなさい」

いつのまにか目の前に移動していたに、ぴしゃりと頬を叩かれてルイはがっくりと地面に膝をついた。視界の端に、彼女の小さな傘が転がっていた。愛を消し去る事など、永久にできないとルイは思った。けれど身体は人間の甘くて柔らかい血を欲しがる。頬には雨とは違う成分の液体が滴っていた。

「あなたのやさしいところ、嫌いじゃないの」

は穏やかな動作と声色で、ルイと同じ高さにしゃがんだ。そうして、先と同じように、ルイの輪郭に指を這わせると、端正な顔のパーツひとつひとつを、の長い爪がゆっくりとなぞった。歪む世界の情景に、彼は今の自分がどれだけ情けない顔をしているかを思い浮かべた。

「ルイ。聞きなさい」

無理矢理ルイの顎を引き寄せ、は彼の濡れた瞳を捉えた。獲物を見つけた蛇のように、また美しい黒曜石が弧を描く。ルイの脳裏に、あの夜の光景がフラッシュバックした。

「人間だった頃とはね、食べ物の好みが変わっただけなのよ」
「そんな、簡単なことじゃ」
「でもそれが真実だわ。あの頃、牛や豚を食べていたのとおんなじ。ただ、それが今は血に変わって、ちょっとだけ、偏食気味になったの。それだけ。何も難しくなんてないことよ」
「う、そだ、違う!」
「ねえ、ルイ。私は、あなたが苦しむのを見るのは嫌なの。レスタトのように、苦しんでいる姿を足を組んで笑いながら見るのは、とても嫌。愚劣だわ、そんなの。悪趣味よね、かわいそうなルイ」

立ちなさいというように、はルイの腕を引っ張り上げた。こうして並べば、彼女はルイよりもはるかに小柄であるのに、女性にしては低い、それでいて下劣ではない声と、立ち振る舞いが彼女をひどく大きな存在に仕立て上げていた。

「けれど、君は、僕にとっては、レスタトと――同じだ」

叫ぶように声を絞り出して、濡れて頬に張り付いた髪の毛をかきあげた。みっともない涙をぬぐうと、ルイはその妖しく輝く弧を描いた瞳から、眼を逸らす。ふいに見た足元は、食い荒らしたネズミの死骸で足の踏み場がなくなっていた。
まるで本当に駄々をこねる子供だった。

「困った人。私よりも大人なのに」

クスクスと母が我が子に向けるような微笑みを浮かべ、は落ちた傘を拾い上げる。ネズミの死臭でも沁みついたのか、鼻を覆うと、眉間に皺を寄せて躊躇い無くそれを投げ捨てた。

「君も、レスタトも、僕にしたら、まるで悪魔だ」
「あら、それって褒めてるの?」

おどけたように肩をすくめると、はルイへ先と同じ輸血用の血液パック投げ渡した。くらくらする薫りがルイの鼻腔をついた。

「血が欲しくなったら、私がこれをあげるわ」

自慢の艶やかな黒髪は雨にすっかり濡れて、ルイと同じように彼女の細い顎へはりついていた。
―― これは、彼女のクセなのだろう ―― の冷たい手が再度ルイの頬にするりと寄せられた。蜘蛛のように少しずつ動く指先が、ゆっくりとルイの薄い唇を開かせてゆく。は、一度ルイの震える手からパックをとると、ぶつりと牙で穴をあけて引き千切り、そのままこぼさないように掌の中へ戻した。

「レスタトの思うが侭に、なってはだめよ。あんな男のペットになってはだめ…いやなんでしょう?早く彼から逃げたいのでしょう?」

諭すように、一言ずつゆっくりとは口を開いた。黒曜石に、先程までの蛇のようなギラギラした輝きはなかった。ルイの身体からゆっくりと恐怖感やこわばりが失われてゆく。
自然に身体が傾いた。ルイは手に抱いていたなみなみと溢れそうな液体に顔を寄せた。つんとした鉄の薫りは、昔なら決して倦厭したはずが、今はこんなにいとおしく感じられた。
――これが、本能。
残り少ない理性で、ルイは微かに唇を噛んだ。

「さあ、お飲みなさい。怖くなんてないわ、ね」

の手がルイの髪を梳く。血液の焦がれる匂いと、目の前の美女から芳る甘い馨りで、その微かな理性はあとかたもなくどこか深い場所へ沈んでいった。むさぼるようにパックの中の液体を体内へ送りこんでゆく。身体中が熱くなった。立っていられなくなり、思わずしゃがみこむ。動物の不味い血に慣れていた舌が、その甘さにびりびりと痺れて脳髄が蕩かされそうだった。輸血用の血液なので、すでに冷めきっていたが、それでも今のルイには充分だった。


狭く汚れ、おびただしい量のネズミの死骸が転がる路地裏は、噎せ返るような薫りで満ちていた。異空間だった。
ルイはただひたすら、パックの底の一滴も残さず飲みつづけていた。しなやかに動きつづける手は、さながら白い蛇のようにルイの身体を撫でてゆく。彼女の美しい顔は、月明かりと消えかけた街頭のもとで、やさしく、聖母のように輝いていた。
はルイの髪を撫でつづけながら、彼が聞いているかどうかも関係無くゆるやかに言葉を紡いだ。


「あなたって、ずるいわ。ねぇ、知ってる?あなたがレスタトを拒絶すればするほど、彼を惹きつけてばっかり。私、すごくつまらないの。いつまでも動物の血しか吸えなかったら、彼の思惑通りじゃない。レスタトの興味をひくものは何もかも許せない。あの人の心は私だけのもの。だから私が、あなたが人の血を吸えるように育ててあげる。私があなたを助けてあげる…」



表面上の聖母の輝きの中で、
ふたつの黒曜石がまた妖しく耽美に歪み始めていた。




end.