ある一人の人間のそばにいると,他の人間の存在など全く問題でなくなることがある。
それが恋というものである。
夢を、観ていた。
いや、たぶん、そんな気がした。
映写機で映し出されるように、白と黒のみの夢を観ていた。夢など、ここ2、30年ほど遭遇していなかった。化物になって以来、初めてだった。とは言っても、人間だった頃は夢を見るひまなどなかったのだから、とても、稀少なのだ、私が、夢を観るというのは。それほどに。
自分の棺桶以外の場所で、眠ってしまったから?
いや、ここも棺桶の中なのだ。
ただし、私がいつも寝ている棺桶ではない、棺桶の中に居る。ギギィと人差し指で重たい蓋を持ち上げる。隙間からまだ少しあたりが薄ぼんやりと明るいのを確認した。暖色だったから、きっと、今はまだ夕方だろうか?
頭はあまりよく働いてはくれない。
まだ。
あと数時間待たなければ。
ヴァンパイアは棺桶にひとたび入ると、深く意識を失う。浅い眠りなどない。生きた年月、元来の体質によって異なるのだろうが、私は深く意識を失ってしまう方だった。レスタトや、ルイと同じく。(クローディアはまだ子供なので、ときどき眼が醒めてしまうようだった。その度にルイの棺桶にもぐりこんでくると、ルイが少し照れくさそうに話している)
光を浴びないように、私はゆっくりと棺桶の蓋を閉じた。
「どうした…」
艶かしい、低い声。狭い中で細く冷たい手が私の頬に伸ばされた。引き寄せて、するりと長い爪を、私の黒髪に絡ませる。やけにゆったりと。けれど、的は得ている動きだった。
「まだ夜じゃないだろう?」
「うん、まだ夕方…でもそろそろ太陽は消えるわ」
そうか、とだけ呟いて、レスタトは私の耳に唇を寄せた。それからすぐに彼の華奢な腕は私の腰にまわる。ぞくり、と背筋が震える。
「起こしてしまった?」
「いや…気にすることはない」
「まだルイもクローディアも起きないわね、この時間じゃ」
「だろうな、まだ眩しい」
端正な顔をしかめて、レスタトは私を抱く腕に力を込めた。華奢に見える身体は武器。どこからそんな力が沸くのだろうと、同族の私でさえ驚いてしまうほど、彼の力は強かった。でも今は加減している。やわらかな私の身体に彼の爪が少し食いこんでいるけれど、それでも今、私に加えている力は、白兎を撫ぜるような、わたがしを掴むような、そんな程度なんだろう。と私は思った。
「」
耳元で囁かれ、途端にこそばゆくなって少しだけ身をよじった。けれど、それは無駄な抵抗、という言葉によく当てはまってしまう。制止する余裕すらなく、まぶたの方から順番に、彼の薄い口唇が降ってきた。ひとつ、ひとつ。手の甲や、この狭い棺桶内で動けるだけ、触れられるだけ、やんわりとそれは押し当てられる。その度に私の身体がぴくりと震えて、後退する。ガタン、と棺桶が音を立てて動いた。面白いように応じる私に、レスタトは口端を上げた。
「、私の」
窮屈な内部で、ぐるりと身体を反転させられた。(そのとき、レスタトの背中がガタンと蓋の裏にぶつかったけれど、彼は何事も無かったように笑みを浮かべていた)それから、私の頬に彼のブロンドがはらりと落ちて、クセのあるその髪を、今度は私が指に絡ませる。
「2人きりだな」
満悦そうな細い目は、ゆるやかにまばたきをする。
「…大袈裟、そんなに久しいことじゃないわ」
「だが、ルイと出会う前は、いつも2人きりの世界だった」
「(あなたが勝手に彼を引き入れたクセに)」
すると見る者を圧倒するような氷の微笑が視界いっぱいに広がった。
(心を読まれたかしら?)と、私は静かに目を伏せた。レスタトはまた耳元へ鼻を寄せた。クツクツと鼻に抜けるように笑うので、読まれたんだと悟った。反則技だと、今度はわざと強く念じる。わざと、伝わるように。きっと今私の顔の横で、子供っぽく嬉しそうに伏せられているだろう蒼い眼を私は想像した。
「嫉妬かな?」
「…ばかね、違うわよ」
「お前はかわいい」
「……でも、あなたはルイに夢中じゃない」
「ふふ、心配するな、私はお前にも夢中だよ」
「どうだか」
―― 嫉妬。
ルイはよい友人、いや、友人というべき対象かはわからない、とにかく、嫌いな部類ではなかったし、それはクローディアという美少女も同じ。なのだ、けれど。いささか、レスタトのルイへの執着心は好ましくないと思っていた。これが嫉妬?人間の愚かで醜い心理が、化物の私の中にまだ残っているとでも?
少しだけ、不愉快になって、私はわざとぶっきらぼうな返答をした。表情が見えないから、彼の真意はわからない。それでも耳元の笑い声は止まないので、きっと彼は今楽しんでいる。それだけ、わかった。相変わらず意地が悪い、私の、創造主は。
「お前は私が怖いか?」
レスタトは上体を起こして、私の黒目がちな瞳を捉えた。少しかたい彼の指先が肩を撫でる。合わせるように少しだけ目を伏せ、またすぐにぱちりと開くと、二の句を待ちわびるふたつの蒼を見た。
「……勿論、怖いわ。いつゴミのように捨てられるのかと」
「ああ、それでいい。常に怯えなさい、その方がいい」
嘘じゃなかった。
ただし、それが本心かどうか、それは私にすら判別できないものだった。
そもそもレスタトに嘘は通用しない。(なんせ心が読まれてしまうのだから)
ひとしきり、失礼なほど笑いを堪えたあと、レスタトは棺桶の蓋をゴトリ、とずらし、そのまま外へ出た。棺桶のすぐ隣にある蝋燭へ、丁寧に火を灯すと、私の手を取り、「おいで」と呟く。従うようにゆらりと起き上がると、先に見た忌々しい太陽の姿はもう殆ど見えなくなっていた。
もう少しで、夜が来る。
「…」
窓の外、濃紺の空に白い月を探していた私を、ふいに、彼は抱きすくめた。長身を折り曲げて、私に体重を預けるように。私の髪が、彼が動く度にゆらゆらとカーテンのようになびいた。私はそれをうっとうしげにかきあげる。そうして、ひんやりとデコルテに伸ばされた手へ、今更制止でもするかのように左手を重ねた。ゆっくりとした彼の鼓動が背中に伝わる。
「私はお前を捨てない」
「…」
「逃げ出しても、捕まえに行って、そうだ、お仕置きしてあげよう」
「……」
「何処に行ってもだ。絶対に、私から逃がしはしない」
そう言って私の髪を指先で弄ぶ彼が、窓に映って、私は思わずどきりとした。やがてみるみる心拍数が上がる。レスタトは心底、楽しんでいるように妖しく瞳を揺らし、歪ませて、伏せた。
「愛している」
「……」
「愛しているんだ」
「うん」
―― 嫉妬など、そんな下らない感情は捨てなさい、お前は人間ではないのだから。
と、私の脳に直接彼の声が響いていた気がして、ガラスの幻影に視線を移すと、呪文のように、愛しているんだと繰り返して、蒼い眼をしたフランスの吸血鬼は強引に私の顎をつかまえた。
そうして、後ろから、そのままの体制で私の口唇を甘噛みし、はじめはゆっくりと紅く滲んだ血を舐めとって、それからすぐに立ち眩むような、噛みつくような口付けに変わった。
棺桶の中で抱かれていたときよりも、更に、もっと強い力が腕にこもっていた。苦しくなりつつある呼吸に、彼に向き直ろうとするが、彼の腕はそれを赦してくれなかった。少しの後退も、身動ぎさえも、赦されなかった。
夢を、見た気がした。
だけどもう、果たしてどんな夢だったのか、と尋ねられると私はすぐに口篭もってしまう。決して印象が薄かったわけではないはずだった。けれど、なぜか、言葉に表現できないのである。たとえるものが見つからないのである。
それは、あまりに鮮烈すぎて?
はたまた、本当にくだらない、意味の無い夢だったのか?
何度となく考え、思い出そうとしても、もうすでに私は夢の中で擁いていたはずの感情が、どんなものだったのか思い出す事ができなかった。
でも、まあ、もういいか、と私は思っていた。
所詮人間の見るものなど、いくら考えてもわからないんだろう。関係の無い事だ。
化物の私には。
end.
|